オリベッティがやってきた

プログラム電卓olivetti101との遭遇

最初の着任校は、市立尼崎高校であった。この学校では教師としてどうあるべきかを教えていただいた。私も若く、下宿には土日深夜を問わず生徒が出入りしていた。

着任当時は、大きな黒板で提示するための大きな計算尺とクラス分の小さな計算尺が用意したあった。大学では、「数学教育法」で手回しのタイガー計算機を使って3乗根の計算をしたのを覚えている。大学に計算機が入り始めフォートランの穿孔カードによるデータ入力らしかったが、一般学生とは無縁であった。

当時、理振法による「プログラム可能な電卓」が数学科に入ることが決まり、事務機器関係の業者が売り込みに懸命であった。
日記を読み返すと、1970(昭和45)年5月26日にオリベッティ神戸支社が、P101を持ち込んみ数日間講習会を開きそのまま学校でトライアル機として置いていった。数学科内で「二次方程式の解を打ちだす」ことがブームになりコーディング用紙にアセンブラもどきの「アップ」「ダウン」「エクスチェンジ」などの記号を打ち込んで放課後夢中になって取り組んだ。GCMPIの計算など自作した。マニュアルはなく講習会で教わった数種類の命令とレジストリを使うだけで、パズルを解くような楽しさがあった。
当時は、入試の成績の順位を出すのに、紙片に受験番号と総合計を出して会議室で総動員して合計点順に並べて、合計順の順位表の対応表を作っていた。これをデータ入力をすれば可能かもしれないと気付き集中して順位付けプログラムを作成した。メモリの数も少なく桁の分割収納を行って1点刻みのテーブルを作成した。

市教委から予算が付きP602が12月15日に導入された。学校で使えるソフト開発が当時はまだなく、メーカーの営業担当者は、教師が作成した利用できそうなソフトを集めては他の学校に配っている状態であった。
数字の並べ替え、順位表、度数分布など今まで手作業で行っていたものがレジ内のレシート用紙のような紙片に位置出された。開発したいくつかは、同社の「P652成績ライブラリー」へ収録された。
必要に迫られて作成したものが役立ち、次からは他の人が出来上がったものを利用できるという体験がその後のプログラム開発への強い関心に結びついた。
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