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 売れたオリジナル優勝ハッピ
 うれしさも中くらい 球団社長飛行機事故死

 阪神タイガースが優勝街道を走り出した昭和六十年(一九八五)九月始めごろから「こんどはいけるぜ」と社内のトラファン同士は顔を合わすたびにニヤリとし始めた。なにしろ、苦節二十一年、社内外の人たちから「弱いなあ。ダメトラやないか」「浪花の恥やぞ」「あんなチームを、よういつまでも応援するなあ」などと、さんざん、いわれ続けてきたのだ。それだけに「うっぷんをはらさな腹の虫がおさまらん。なにか、はでなことをやろうやないか」と朝日新聞社猛虎会が盛り上がってきた。私の提案で決まったのが優勝記念オリジナル法被(はっぴ)の製作だった。
 幸い、取材で付き合いのあるイラストレーターのMさんがトラファンで、こころよく引き受けてくれ、すぐレイアウトができた。白地に黒の縦縞、右のえりに「六〇年優勝記念」、左のえりには「朝日猛虎会」と黒地に白抜きで染める。背中は掛布選手のイメージ顔を黄色で、しかも鉢巻を締めさせ、「朝日」のマークを朱色で入れたユニークなものだ。このマークをつかうに当たって、念のため会社へ、伺いをたてたら、はじめ「朝日が特定の球団を支持している印象を与えて好ましくない」と渋った。が、「お祭りじゃないか。堅いことをいわなくても」と猛虎会の陳情などで、しぶしぶ許可が出た一幕もあった。
 法被メーカーを探して注文したが、なるべく安くするため一千枚を目標にした。トラファンの多い朝日放送にも「背中の朝日新聞」のマークを「朝日放送」のマークにして作らないか、とUスポーツアナウンサーに呼びかけたら「よし、頼みます」と四百枚の注文がきた。S女子短大のO教授にも声を掛けたら即座に百枚の注文。えりに「O女子短大猛虎会」と入れることにした。
 社内で注文をとると、すぐ五百枚を超えた。ハッピメーカーのW商店に、とりあえず一千枚を注文した。
 ところが皮肉なもので、とたんに阪神がもたつきだした。ヒヤヒヤの日が続く。マジックが9になっても安心できない。ファンは不安につながる。十月一、二日と広島に連敗したときはドキリ。八日にはヤクルトにも敗れマジック7で足踏み。「優勝がまぼろしになったらどうしよう。ハッピ一千枚とその代金は?」と深刻に。ハッピの下敷きで呻く夢まで見て、目を覚ましたら冷汗をかいていた日もあった。眠られぬ秋の夜が続いた。ようやく、マジック3になってほっとした。新聞も現金なもので「どうした虎」「やっぱり張子の虎か?」だったのが、「神撃」「優勝へ虹かける」と特大の見出しで勇ましくなった。
 十月十六日夜、ヤクルトと5−5で引き分けて優勝が決まるとハッピの配布と新たな注文が殺到して大忙しに。伝え聞いて東京を始め、西部(北九州市)、名古屋、北海道の各本、支社からも電話注文が来てたちまち追加注文になった。朝日放送の大のトラファンDアナウンサーが、このハッピを着てテレビに出たので、「ぜひ、売って欲しい」と視聴者からの注文も殺到したという。
 「タイガース選手と行くハワイ」の企画をし、ジャンボ飛行機で四百人を運ぶことになった日本航空のI国際販売課長からは乗客全員に「日航猛虎号」のハッピをプレゼントしたいのでぜひ、の注文も来た。結局、三千枚以上も売れる"ハッピー"ヒット商品になった。
 もちろん、朝日猛虎会もホテルで祝勝会をし、全員八十人がハッピを着て「六甲おろし」を合唱、美酒に酔うハッピーな一時を過ごした。いつのまにか、私が朝日猛虎会長に祭り上げられ、胴上げされた。
 勢いとは恐ろしいものだ。この後の西武ライオンズとの日本選手権でも4勝2敗で勝ち、球団五十周年を祝うにふさわしい初の日本一に輝いた。
   ×   ×   ×   ×  だが、阪神球団にとっては"めでたさも中くらい"だったのだ。じつは優勝街道を走り始めた八月十二日に中埜・球団社長が乗った日本航空の東京発、大阪行きジャンボ機が群馬県・御巣鷹山に墜落、犠牲者五百二十人の一人に巻き込まれるというアクシデントが起きた。
 それだけに、優勝が決まると吉田監督らは優勝旗を持って霊前に報告、選手会はウイニングボールに全員がサインして供えたのが印象的だった。勝利の女神は、なかなかいじわるだ。単純に優勝させてはくれない。
(昭和六十年十二月の日記など)

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