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慧海が西蔵行きを決めた萬福寺・一切経
朝日友の会で発行している「アサヒメイト第327号」平成17年06月1日号(発行所/朝日友の会事務局)から転載。
ヒマラヤを越えチベット(西蔵)へ仏教原典を求めに行った大阪府堺市出身、元大正大教授・河口慧海(昭和20年、89歳で他界)が今、脚光を浴びている。この仏教学者の顕彰碑も3月26日、東京・世田谷区の邸宅跡に建った。
明治から大正時代にかけ2度もチベットを訪れ一切経など仏典を手に入れた慧海はネパールで数年間勉強してヒマラヤを越えたので、後にネパール大王に宇治・黄檗寺の「黄檗版一切経」を献上したとされる。最近、現地調査した高山龍三・元京都文教大教授がネパール古文書館に全巻保存されていることを確認したという。謎とされた慧海のチベット潜入ルートも判明、名声が高まった。
★重厚な中国式禅寺・萬福寺
その慧海にチベット行きを決意させたのが、京都・宇治にある萬福寺・塔頭「宝蔵院」の一切経の版木だった。
まずは黄檗宗大本山の萬福寺(拝観500円)へ。京阪宇治線・黄檗駅から近い。江戸時代に中国から渡来した隠元禅師が開創した禅寺だけに荘厳な雰囲気が漂う広大な寺院だ。入口に隠元禅師が日本へもたらした“もうそう竹”が茂っていた。本堂の「大雄宝殿」などの伽藍は重厚だ。通路に吊ってある1b大の魚形の「開版」は時を知らせるのだが、「木魚」の原型と説明にあった。
★版木が3階までびっしり
じっくり回った後、最大の目的の版木を見に塔頭「宝蔵院」(拝観300円)へ。「重要文化財 鉄眼禅師一切蔵経版木」の看板が建つ。鉄筋3階建ての経蔵庫。2階へ上がってびっくり。3階にかけて一切経(般若心経など仏教の聖典の総て・大蔵経)6万枚の版木が積み上がっていた。墨で黒光りし歴史を感じさせる。現在の価格で計算すると56億円とあった。刷っている職人がいた。“百寺巡礼”の作家「五木寛之さんも来られました」と寺院の話。
ここの版木は江戸時代前期、開祖・鉄眼禅師が一切経を吉野桜の木に漢字の明朝体で彫り続け13年かけて天和元年(1681)に完成させた。
慧海は自著『チベット旅行記』(1)(講談社学術文庫)で、黄檗山の一切経を読んで、正確なチベット語教典をぜひ手に入れたい、との思いに駆られた、と書いている。
しかしネパールからヒマラヤ越えで当時、鎖国中だったチベット・ラサ地区のセラ寺を目指すのは並大抵ではなかった。明治33年(1900)と大正2年(1913)の2回、半年以上かけての“登山修行旅”。その苦難のヒマラヤ越えは『チベット旅行記』(5巻もの)に詳しい。凍るばかりの川を素足で渡ったり、虎の吠えるのを近くで聞いたり、かなり冒険と危険な山越えだったことが書かれている。
★今はジェットで1時間 今も鳥葬の国
筆者は中国・成都からジェット機で2回、ヒマラヤ越えでチベットのラサやシガツエへ入ったが、約1時間の飛行だった。富士山より300b高い標高4000b台の“天国に一番近い高地”だけに簡易酸素ボンベを口にする観光客が多い。慧海はよくも、こんな険しい山を登ったものと感心した。もっともヒマラヤ越えに備えて、大きな石を担いでトレーニングしたそうだが。
チベットは地盤が固く、樹木も少ないため、今も死者は“鳥葬”(天葬)にすると聞いた。死者は寺院の裏山へ担ぎ上げ、祠で祈祷して魂を抜き、鳥が食べやすいように細かく砕き、笛を吹くと、数十羽のハゲワシが舞い降りてきて食べ尽くすという。
セラ寺には慧海が修行した痕跡もあった。若い僧が宝蔵院同様に版木を刷っていたのが印象的だった。(元朝日新聞編集委員 吉原 暢彦)
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