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 雲隠れした教育長の“捜索隊”出動

 T元文部事務次官といえばリクルート事件で有名になった。事務次官時代に普通では手に入らない多額の上場前の安いリクルート株を譲り受けた。おまけに、その買う資金までリクルートから提供されていたことが明るみに出た時、「妻がやったことで知らない」としらを切り、隠し通せなくなると「あれはうそだった」と、しゃあ、しゃあ、といってのけた。しかも、リクルート事件のさなかに総選挙に立候補意思表明したので、文部大臣や総理大臣までが「好ましくない」、「不愉快だ」とにがりきった発言をして止めさせようとした。が、馬耳東風、「憲法で立候補する権利が保障されている」の迷言を吐いて、強引に立候補。大方の予想通り、見事に落選の憂き目を見た世間知らずで“傲慢”な九州男児。日本の教育の頂点に立った人間のする行動か、と国民もあきれ果てとものだった。
 事務次官時代に公務を装って、衆議院出馬準備のため、足繁く郷里の福岡県へ“出張”していたことも明るみに出た。つまり、税金で事前運動をしていたわけだ。おまけに郷里に生涯福祉事業の財団をつくり、東京の、ある私立大学から八億円も出資させていたことなど悪行の数々がわかって国民の怒りをかった。
 この人、地元の九州大学卒。昭和四十二年からの北九州市合理化紛争の時、文部省から乗り込んで市教育長として日教組潰しで敏腕を振るったので有名。この“功績”で文部官僚最高位レース・レールを走るきっかけになったとの見方がもっぱら。
 私は当時、北九州市政を担当していたので、リクルート事件から衆議院選挙で落選までの経過を見ていて「昔と変らず強引で無鉄砲。あの人らしいなあ」とつくづく思ったものだ。
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 「雲隠れと書かれて迷惑している」と北九州市政記者クラブに来て、すごいけんまくで怒ったT教育長の姿がいまも私の、まぶたに焼き付いている。「だって今日まで連絡が取れなかったじゃありませんか。雲隠れですよ」と記者らが反発すれば、「そんなことはない。幹部には行き先をいってある」、「そうはいうけれど教育委員会の幹部も知らない、といっていたじゃありませんか」記者との激しいやり取りが続いたものだ。
 実は昭和四十三年四月一日付で教員異動を発令したが「組合潰しの不当配転があった」と組合側が問題にし、修正を要求して大量動員をかけ、教務部長らと徹夜の交渉をするなど、強硬な態度に出た。組合にすれば▽異動に対する苦情処理で組合を通しての意見申し入れが拒否された(いままで組合の申し入れが通っていたとしたら、それもどうかと思うが)▽市教委の指導主事や人事管理主事から校長になったケースが多すぎる、などを挙げ、極めて当局サイドに立った異動だと反発した。
 「組合が“教育長捜索隊”を編成した」など当時の新聞紙面が面白い。同年四月二日の夕刊によると、見出しは「雲隠れ続ける教育長 市教組の異動抗議に」と四段抜きで「T(新聞は実名)教育長は一日に異動発表の記者会見をし、その後『教組の妨害で発令が混乱したが、市教委としては発令を修正したり、変更する考えはない』との文書を報道関係者に届けたきり行方をくらました」「市教委事務当局も『まったく連絡がとれない』という。(略)市内のどこかに隠れて教組の出方を見守っている見通しが強く、組合側は五百人を午前二時から教育庁内に座り込ませる一方で、T教育長捜索隊を編成し、車で市内を探し回っている」となんともマンガチックなのだ。  結局、二日夜になって組合との交渉の場に顔を見せたが、態度は変えず「教師が異動期間を過ぎても新任校に着任しなければ処分を含めた事後処置を考える」と、どこまでも強硬だった。
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 後にT教育長は文部省に戻り、ある日の新聞で官房長に昇進したのを知った私は、当時が懐かしくなり、お祝いも含めて手紙を出した。が、なしのつぶてだった。こんな経験は初めてで、いささかショックを受けた。“濡れ手に粟”のリクルート株に平気で手を出す半面で、道徳や礼儀を特にやかましくいった文部省高官としてのT氏。なんだかジキル氏とハイド氏の姿が浮かび、こんな文部官僚が堂々と次官まで努める日本の教育制度は?と、思ってしまう。
(平成二年「記者生活の思い出」)

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