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 俊寛が流刑された鬼界ケ島(硫黄島)

鬼界ケ島(現在・硫黄島)
俊寛僧都エレジー島
安徳帝も生き延びた

◆ 噴き出す白煙 海水も赤茶け
「俊寛僧都」といえば京都・東山中腹の俊寛の山荘(山荘跡の碑が立つ)で平家打倒の密議をしばしばひらいていたのがバレ、おこった清盛によって遠く鬼界ケ島へ平康頼、少将成経とともに流された高僧。他の二人は途中で帰されたが、俊寛一人、望郷の念、空しく島で死に果てた。
平家物語の足跡を訪ね歩いていると、どうしても鬼界ケ島に思いが至る。その島は奄美諸島の喜界島ではないし、第二次大戦で日本軍が玉砕した硫黄島でもない。なんと鹿児島県の南の海に浮かぶ・硫黄島(鹿児島県鹿児島郡三島村)なのである。鹿児島港から一八〇キロもあり、村営船が月に十三航海しているだけ。忙しい身なので本社のヘリコプターで運んでもらった。
北九州市の北九州空港を離陸したヘリは二時間で鹿児島市の上空に達した。もうもうと噴火が上る桜島をすぐ左に見ながら海へ出て三〇分もすると、文字通り竹で覆われた竹島の向こうに噴煙を上げる硫黄島が見えてきた。
近付くと、昭和九年の爆発で誕生、海面に顔を出しただけの小さな新硫黄島が波に洗われ、すぐそばに硫黄島が聳える。一周したが山肌のあちこちから白煙がもくもくと立ちのぼり、黄色い硫黄が付着しているのが見える。硫黄と鉄分のためだろう長浜港内の海水は赤茶けて、港外にも流れ出している。なるほど「島の中には高山あり。鎮(とこし)へに火燃え、硫黄と云うもの充(み)ち満てり」とリアルに描写した「平家物語」の通りだ。

◆ ヘリは牛の群れを避けて着陸
 「牛がいるな。近寄らんだろうな」とパイロットがつぶやいた。見るとあちこち穴があいた舗装の上でたくさんの牛が遊んでいるではないか。空き地を見つけて降下する。ローターを回したままパイロットは「もう燃料が少ないので、すぐ離陸します」と言って飛び上がった。ヘリの燃料は三時間程度だから、補給する鹿児島市までぎりぎりだったのだ。
 機影が小さくなっていく。「ああ、これで二日後の船便まで帰れないのか」と思うと俊寛の心理がわかる気がしてきた。「船は三名を置き捨てると、すぐ、帆を張って島をは離れてしまった。(略)その船影が見えなくなるまで、三人は海辺に立って凝然と見送っていた」(吉川英治「新・平家物語」)。その通りだ。  それにしても、いまから八百年前に、よくもこんな遠方の島へ流罪にしたものだ。たどり着くのに二カ月かかったといわれるが、流す方も大変だったろうと、つくづく思った。
 降りた草ぼうぼうの六百メートルほどの滑走路は大手楽器メーカーがリゾート開発を目指して、小型飛行機を飛ばし観光客を運ぶのに造った。赤字続きで四年前からホテルともども休業中という。

◆ 飛び交うクジャクに痛い"目玉"
 予約した本田旅館に聞くと「タクシーなんかありませんよ。私が迎えに行きましょう」といい、待っていてくれた。両側は松と大名竹の林だ。「ギャ、ギャ」と道路や空を飛ぶ鳥は、なんと、あの動物園でしか見たことのないクジャクではないか。「楽器メーカーが客寄せに自分のホテル前で飼っていたんです。ホテルを閉鎖してから野性化して増え、西瓜を突っ突くわ、野菜の新芽を食べるわで困り果て、百五十万円かけて捕獲作戦を展開中です」といって捕獲場へ連れて行ってくれた。なるほど、畑の中に餌を仕掛けた大きな金網のオリがあった。捕まったクジャクは悲しそうな表情。オリの周辺をけげんそうに、うろつくのもかなりいた。「クジャクは利口でなかなか入ってくれません」と笑った。
 事前に役場から送ってもらったパンフレットには「枝から枝へ飛ぶさまは、まるで南海の不死鳥」とあり、きれいなクジャクのカラー写真を載せ、観光の目玉にしていた。が、一方で痛い"目玉"にあっていたのだ。

◆ 唯一の足はバイク
 翌日から俊寛の足跡行脚を始めた。と、いっても周囲十五キロ、人口八十五戸、百六十人の島だから、バスなし、信号なし、タクシーなし。旅館でバイクを借りて走ったが、目的の俊寛より先に、安徳帝の足跡を追うはめになった。

◆ 島で生存、子息ももうけた安徳天皇
 あの悲劇の幼帝、安徳帝が、この島に隠れ住んで一生を終えたと聞いてびっくりした。平家物語では壇ノ浦の戦いに敗れ、平清盛の妻の二位の尼に抱かれて「波の下にも都の侍(さぶろう=あります)ぞ」と騙されて、まだ八歳で「千尋(ちひろ)の底にぞ沈み給う」たことになっている。
 集落から離れた松林の中の安徳帝墓所の説明板には、入水されたのは平時房の娘で、当時七歳の總君(つなぎみ)で男装して身代わりになった。安徳帝は平資盛の軍団に守られて、この島に来られ、寛元元年(一二四三)五月五日夜、六十六歳で亡くなられた。ここでは「雲隠れ院」「雲隠れ天皇」と申せられた、とある。数字的にも、それらしく、えらく詳しい。
 安徳帝は俊寛が死んだ六年後に來島したことになる。よりによって何故この島に来られたのか。俊寛を流罪にした経験から、あそこなら安全と決めた知恵者がいたのだろう。一角には安徳帝のほか、お供をしてきた平家の重臣たちの墓もずらりと並んでいた。
 しかも、少し離れた雑木林の中には安徳帝の皇后という櫛匣(くしげ)局の墓まであった。その説明には、資盛と狭野内侍の間に生まれ、二十歳で安徳帝の皇后になった。承久三年六月一日、隆盛親王をお産みになり、文永二年(一二六五)に亡くなられた。生前、帝と同じ場所では恐れ多い、とこの地を選ばれた、とある。

◆ 平家物語・意外史 いまも続く長浜天皇家
 一体、平家物語の安徳帝のくだりは偽りなのか。安徳帝は本当に誰かが替玉を使い生き延びさせ給うたのか。「あれは身代わりを使ったのです」と村会議長の岩切浅芳さん(七十三)ら地元の人達はきっぱり。岩切さんは、資料の裏付けもあるとして、さらに、こう説明する。「源氏の追討が厳しくなると、安徳帝は身分を隠すため、子息の隆盛親王を土地の名家、長浜吉資の養子にされ、名を吉英と改められた。以後、現在は三十四代。三十三代は三年前に亡くなられたが、"天皇さん"と呼ばれてきました」という。
 その長浜天皇家は、島では広い方の敷地だが、普通の民家と変わらない。違うのは庭の裏に「黒木御所跡」の碑があり「安徳天皇は元暦二年五月一日、長浜浦に上陸され同五月五日、ここを御所と定められた 三島村」と刻まれ、村が公認している。「三十四代は鹿児島で先生をしておられますが、いずれ島へ帰ってこられます」と岩切さん。
 村松定孝著「平家物語の旅」によると、安徳帝の陵は九州、四国、中国に四十カ所余あったが、明治八年に山口県の赤間神宮の阿弥陀寺陵が正式と決まったとあるのだが。
 しかし、硫黄島で追跡していくと、島の人は本当に信じているし、こんな話が存在してもおかしくない雰囲気がある。これはもう立派な「平家物語意外史・安徳帝の巻」になる。

◆ 二人と仲が悪かった俊寛
 ところが俊寛らはどんな流人生活を送ったのか。
 平家物語によると、俊寛は同僚の康頼、成経の二人とは仲が悪く、はじめから単独行動をとった。二人は以前から紀伊の国、熊野を信心していたので熊野三所権現(本宮・新宮・那智)をまつり、「都へ帰れるよう祈りたいものだ、と話し合ったが、俊寛は生来、信仰心のない人で、この計画を受け付けない」(中山義秀訳「平家物語」)。やむなく二人で、熊野に似た地形を探し、三所権現を勧請し、毎日参拝した。
 その三所権現は今春、朱塗りの立派な社殿に改築された。ここが安徳帝晩年の皇居にもなったそうだ。なるほど後ろに山が見えるものの平家物語に出て来る「滝の音、特にすさまじく、那智の御山に、さも似たりけり」の表現にはとても似ていないが。なにしろ、島には滝がないのだ。
 俊寛堂は道から外れたところにあった。隠棲した証拠ともいえよう。竹林のトンネルをくぐり抜け、びっしり生えた苔で滑りそうになる場所を降りた雑木林の中だ。茅で覆われた質素な堂の前に燈篭が一対。俊寛は横の河原で生活していたという。島の人は、この川を「俊寛川」と呼ぶ。一人さみしく二年を過ごして、治承三年(一一七九)九月に死んだ俊寛を偲ぶにふさわしい地。故郷を思い涙を流した「涙石」まで硫黄岳のふもとにあった。伝説は、うまく観光資源を作ってくれる。
 北海岸までバイクを飛ばした。ここにも温泉が涌いていた。遠くに、薄すらと"本土"の開聞岳も見えた。温泉に浸りながら俊寛ならずとも望郷の思いを誘う。

◆ 足摺石は悲し
 長浜港へ「足摺石」を見に行く。赤茶けた海の色がすごい。石は断崖の下にあったが、満潮で行けない。俊寛だけ残されたので船にすがった時に付いた足跡石だという。平家物語はなかなかリアルに描写している。
 康頼が「薩摩潟沖の小島に我ありと、親には告げよ八重の潮風」などと望郷歌を千本の卒塔婆に書いて毎日流した。その一本が拾われ、清盛の心を動かした。召還が決まり、迎えの船が島へ。しかし、俊寛の名はない。二人を乗せた船が出ようとすると、俊寛は「さて、いかに。おのおのは俊寛をば終(つい)に捨て果て給うか」と、船の綱にすがり足摺した。
 この場面は能楽の「俊寛」がリアルだ。ところが近松門左衛門の歌舞伎「平家女護島」では、結局、三人とも乗船を許されたが成経の妻、千鳥(現地の海女)だけ拒否される。すると俊寛は自分の身代わりに千鳥を乗せろ、と赦免使と争い、赦免使を殺す。その罪で俊寛が島に残るというエレジー・ストーリーになっている。それぞれにクライマックスは劇的だが。

◆ お経を書いた俊寛石
 宿の主人が「いいものを見せましょう」と箱から出したのは「俊寛石」だった。墨で「我」「義」などと書かれている。康頼が島を去るに当たり、一人残された俊寛へ形見として渡した法華経をもとに一字ずつ石に書き、土に埋めて経塚にしたと、伝えられている。熊野神社の裏山から掘り出された一部だが、もうほとんど残っていないそうだ。

◆ 酢雨が降る厳しい自然
 この島は全く素朴だ。今でも集落を離れると大名竹など雑木と草が生えている地帯が広がるだけ。人にもめったに会わない。雨が降ると噴き出している硫黄ガスがとけて、酸性雨になる。地元では「酢雨」と呼び、温暖なのにミカンもなかなか育たないと聞いた。厳しい自然環境にあるのだ。
 観光パンレットではないが、"不死鳥"のようなクジャクが目をキョロキョロさせながら道を横切ったり、木の上から飛行するのが自然動物園らしい珍しさ、といえよう。

◆ 海際に露天風呂
 島にいる間の楽しみは露天風呂だった。集落から四キロ、手を伸ばせば海という東温泉。囲いも何もない。あふれた湯は海へ。潮騒を聞きながら入っていると気分はグーだが、つい俊寛を思う。当時も温泉は涌いたのかな。唯一の慰めだったのでは、などと。吉川英治の「新・平家物語」では、島の娘と頬ずりするなど仲良く暮らしていた、と楽しいストーリーに仕上げてある。ところが「平家物語」では、一人残された後に訪ねて来た有王(昔、俊寛に仕えていた)が見たのは「蜻蛉(かげろう)のように、やせ衰えて、よろけながら歩いてきた俊寛だった」(中山義秀訳)とエレジーになっている。そこが小説的手法との落差であろう。

◆ 遠のく島に俊寛の姿がだぶる
 帰る朝、役場のマイクが「船は予定通り鹿児島を出ました。乗船客は六人、貨物百十一個です」と放送した。なんとも几帳面だ。その船が我々を乗せて出港したのは午後一時だった。黒島を回るので六時間はかかるという。
 「有王(島に)渡って二十三日というに、その庵の中にて(俊寛)遂に終わり給ひぬ。歳三十七とぞ聞こえし」。平家物語のエレジーシーンが次第に遠のく島にだぶった。わが平家物語の旅も終わりぬ。

【メモ】鬼界ケ島がいつから硫黄島になったか、はっきりしない。硫黄を産出したことから硫黄島になったというのが通説。噴煙を吐き続けるのは硫黄岳(標高七〇三メートル)で、九州四大カルデラの一つ鬼界カルデラにあり、硫黄島は霧島火山帯に沿って噴出した海底火山。以前は硫黄を採掘していたが、現在はセラミックスやガラスの原料になる硅石が採れる。温泉の成分は硫黄、明礬(みょうばん)で皮膚病に効く。 (八十七年五月二十八日「旅」)
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◆ 平成8年、勘九郎が現地で熱演
 九十六年五月二十九日夜、歌舞伎の中村勘九郎さんが、現地で「平家女護島」を演じた。あいにくの強い雨が降る中、「島の娘と流刑貴族(成経)との恋を実らせるため、娘の身代わりに俊寛が残る」くだりを熱演し、住民やチャーター船でやって来た観光客ら七百人が見入っていた、と朝日新聞(三十日、朝刊一面にカラー写真付きで)などが報じた。
 役場の話では一年前に俊寛の碑が建てられ、公演以来、観光客が増えているという。
(九十六年六月三十日追記)

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