ペンション26歳
仕事柄ペンションとも長いかかわりがあった。レジャーがブームの兆しを見せたのは七〇年(昭和四十五年)の大阪万博ごろからだ。生活にも少しゆとりが出て、マイカーでファミリー旅への機運が盛り上がった。が、高いホテルや旅館に宿泊できる層は限られていた。そんな時に安く泊まれる“ヨーロッパ生まれの小さなホテル”「ペンション」が日本に持ち込まれ、第一号が七〇年に群馬県草津高原にオープンした。欧州では一八〇〇年代後半からあったが、B&B式(宿泊と朝食だけ)。日本に導入されたのは洋式ながら一泊二食のニュータイプ。これが若者を中心に受けて雨後のタケノコのごとく増え現在三千軒。一時は本来のペンション(洋式)とはかけ離れた民宿風などが出現、そこで日本へ導入した人たちが七二年(昭和四十七年)に「日本ペンション協会」(会員はわずか八軒、現在百六十軒)を設立、オール洋間でツインベッド、「安い料金、清潔、家庭的なもてなし」の三原則を掲げて普及に努力した。翌七三年には土地斡旋、建設、開業指導までする初のペンション専門の「ペンションシステム・デベロップメント」(PSD)も営業開始した。メルヘン調のカラフルな建物が多いのも、この会社の設計コンセプトによるところが大きい。厚生省も「八割以上を洋間」とする基準を決めた。「広辞苑」にもペンションを「洋風の民宿」と紹介するなど知名度も上がった。経営者に脱サラ夫婦が多い。家族的もてなしを、という協会の指導もあり、プレイルームで宿泊客同士のほほえましい交歓風景もみられるのが特徴だ。ペンション村もあちこちに出来たが、同じような建物が百軒も並び、酔眼だと区別がつかなくなりそうなところも。
その点、個性あるこじんまりとした理想的“村”として成長したのが岡山県邑久郡牛窓町の「牛窓ペンション村」だ。“日本のエーゲ海”はともかく、瀬戸内海沿いの岬地区十一軒を中心に同町内に二十三軒ある。PSDの斡旋で二戸開業したのが七八年(昭和五十三年)。「知名度もないし、こんな辺地で営業できるか、最初は不安で、止めようかと思ったことも何度かある」十四年前、取材で訪れた時、「ペンションせとうち」のオーナー鈴木賢雄さんが語った言葉だ。みんな家を売り、退職金をつぎ込んで近畿から移り住んだ脱サラだから必死だった。それから十八年、増築、改良もした。二十四時間入浴可能な展望風呂が好評。湯につかり、目の前を行き交う船や小豆島を眺める気分は最高だ。鈴木さんは娘夫婦に任せ、今は山手に「泰山木」という小さなペンションを経営し、七十六歳の“老春”を謳歌している。隠居するつもりが、ペンション好き、特にお客との交流が楽しみで四部屋造った。「おじさん元気。また来たわ」と孫のようなギャルらが訪れると嬉しい。
同時に開業した山野勲さんは、老後はのんびりと、と他人に譲り、近くでテニスクラブを経営、六十三歳に見えない若さでテニスやゴルフを楽しむ。オーナーが、亡くなり、息子さんが経営しているケースもある。ここに至るまでの開拓労苦は、どのオーナーも同じ。地域への溶け込みにも努力した。感心するのは研究熱心なこと。本場ヨーロッパ・ペンションの視察にも出かけた。私も同行したが、ドイツ、スイス、フランスを回り、ペンションに泊まり歩いた。あらゆる角度からカメラやビデオにとって参考にした。経営者との懇談もした。その経験は生かされた。だから、常連客も増えているのだ。
軽井沢へ行って成功したオーナーもいる。その一人が「千ケ滝」を経営する秋山よしひろさん夫婦だ。JR中軽井沢に近い林の中の別荘地で、家族用に二部屋つながるコネクティング・ルームもある。近くに温泉やゴルフ場も。二人とも大阪の大手スポーツメーカーを途中で脱サラ。しかし、そのメーカーと保養所契約を結ぶあたりはさすがだ。偶然、私と秋山さんとは同郷だが、明るく、気さくな人柄が固定客をつかんでいる。
ほとんどのペンション開設にかかわり、特に「牛窓ペンション村」造りの立役者である尾上誠・日本ペンション協会事務局長は「みんな人柄がいいし、ペンションを本当に愛している。とにかく熱心。特に牛窓ペンション村はチームワークもよく、努力もしており、それが成功の秘訣ですね。要するに三つの原則を忠実に守り、誠実なもてなしをすることに尽きます」という。
これから休日も増え、安くて良い宿の要望は益々高まるだろう。ペンションが生まれて二十六年。フォローの上昇気流に、いかにうまく乗って飛躍するか、ペンションの“テンション”も高まるばかりだ。
(九十六年六月「記者の思い出」)