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 「ベトナム縦断ルポ ドク、ベトちゃんに会う」


 ベトナムを南のホーチミン市(旧サイゴン)から北のハノイまで1700`縦断した。 ホーチミンは34度と暑かったが、ハノイは日中でも20度で長シャツにセーターが必要な涼しさ。ベトナム戦争が終わって17年。あちこち傷跡が残るのは15年間も戦争をしたのだからやむをえまい。とくにショックだった戦争の傷跡はツーズー病院で会った二重体児のドクちゃんとベトちゃんの姿だった。そして米軍らにも負けなかったねばりと自信の“ベトコン・イズム”でドイモイ(刷新)しながら、めざましい発展をする新しいベトナムがそこにあった。

▼昔の日本が走る

 南ベトナム解放民族戦線がアメリカ軍と、その支援で成立した南ベトナム政権を破り、サイゴン市を陥落させてピリオドを打ったのが1975年4月30日。南北ベトナムを統一し、ベトナム社会主義共和国が誕生、指導者の名をとってサイゴンはホーチミン市になった。
 そのホーチミン市は裸に素足の自然体で生きている人が多い。中国は自転車の洪水だが、ベトナムはオートバイやバイクが圧倒的に多い。女性もアオザイスタイルでバイクを運転している。ほとんど日本のホンダ中古車だ。いずれも日本〜シンガポール〜カンボジア・プノンペンのルートで税関を通らずに持ち込まれる。ボロボロの中古車も部品を交換して新品同様に仕上げる器用さ。竹内宏・長銀総合研究所理事長の表現を借りると「修理に修理を重ね、部品を完全に摩滅するまで使い切るのだ」。だから修理屋と部品屋が非常に多い。バイクや自動車にしても、日本の田舎町の店名ワッペンを貼ったまま走っている。日本製に乗っているのがステータスなのだ。ここでは日本の昔が生きている。

▼名残のフランス建築

 ベトナムは19世紀中頃、フランスが統治してから、都市としての形が整ったというだけに、フランスの名残をあちこちで感じる。街頭でフランスパンを売る店が多いし、建築もフランス風だ。黄色く赤い屋根の市庁舎、郵便局も時計台があって大きな駅舎を思わせる。その前にそびえる2つの尖塔と時計台のある赤煉瓦造りのサイゴン大教会はヨーロッパ調。1894年に造られたもので、訪れる外国人はここで記念撮影をしていく。

▼電子オルガン弾くドクちゃん

 ベトナム戦争での枯葉剤作戦の犠牲者といわれる二重体児のベトちゃん、ドクちゃんは日本に来て診察を受け、大きく報道された。結局、ホーチミン市のツーズー病院で88年10月に分離手術に成功したが、4年たった今、経過はどうか、と訪問した。フォン・女性院長は、日本からたくさんのプレゼントを貰ったことに感謝し、2人の部屋へ案内してくれた。

▼その後も生まれる二重胎児

 2人とも11歳で、元気なドクちゃんは小学3年生。午前中は学校へ通い、午後は病院の自室で勉強の毎日だ。片足で器用に自転車に乗るし、電子オルガンで「カラスなぜ鳴くの」と日本の童謡を弾いてくれた。が、ベトちゃんはうつろな目をし、寝たきり。もう一つ元気がない。2人以外に、その後も二重体児が生まれていると聞いてショックだった。
 特別室にはへその部分がくっついていて分離した乳児、足首から先が無い赤ちゃんがベッドに横たわっていた。また、サンプル別室には、奇形児のホルマリン漬けがズラリと並んでいた。戦争の傷は癒えていないことを痛感した。

▼大爆撃に耐えた地下都市トンネル

   戦争はベトコン(アメリカなどが南ベトナム解放民族戦線に付けたニックネーム)がサイゴン市を総攻撃した最後のシーンは「こんなすごい砲撃が10日続けば、町中が恐怖で狂い出すのではないか…」「夜、砲音が一段と迫る。ホテルのベッドから赤々とこげるビエンホア方面の空を見上げながら、『1つの国の崩壊に立ち会うことが出来れば、新聞記者冥利だ』と何回も自分に言い聞かせ、再びふくれあがってくる不安感を抑えた」などと、当時サンケイ新聞サイゴン特派員だった故近藤紘一氏が『サイゴンのいちばん長い日』でリアルに描写している。
 そのベトコンが立てこもった地下生活トンネルのあるクチ地区へ車を走らせた。
ホーチミン市から北西へ70`。稲刈りをしている隣で田植えという3毛作の南国らしい風景が広がる。道路でモミを干している。そばを水牛と馬が大きな荷物を引いてゆく。水田を耕すのはまだ水牛だ。1時間半も走るとジャングルに入った。

▼大阪〜豊橋の地下都市

 あちこちに10数年かけて手掘りしたトンネルの入り口があったが、蓋をして枯葉をかぶせてあるので、よく見ないとわからない。地下で煙りを出しても枯葉の間から少しずつ出るので発見は難しい。
 背をかがめて地下へ降りていくと高さ3bの部屋に出た。司令室、ハンモックの寝室などさまざまな部屋が続く。地下3階建てで延べ250`、メコン川に通じている。新幹線新大阪〜愛知県・豊橋までの距離に相当する。ここに数万人が隠れ住んだ。これはもう地下秘密都市だ。「当時、米軍などが5万トンの爆弾を落とし、30万発の砲弾を撃ち込んだが効果がなかった。不思議に思い犬のドーベルマンまで動員したが、トンネルは発見できなかった」と案内してくれた元ベトコン兵で、バズーカ砲部隊にいたクオンさんは誇らしげに言った。  周囲には打ち落とされた米軍ヘリコプターや戦車が放置され、戦闘の激しさを物語っていた。同時に近代科学兵器だけでは人海戦術に勝てなかったことを見せつけていた。「あのバイタリティー源は案外、昨夜食べた蛙や揚げた鳩肉などの野生のエネルギーにあったのかもしれない」とくだらぬことを考えた。

▼王宮にも弾痕

 ホーチミン市から空路1時間でダナン。細長いベトナムの中間点だ。北へ100`でダナン王朝が1802年に首都を置き、王宮を造ったフエ市に。なるほど王宮を中心にまとまった都市だ。壕にに囲まれた王宮内は高い城壁を巡らして広大。中国の紫禁城をまねたという大和殿で、かって皇帝の即位式が行われた。使用された金箔の椅子などが飾られていた。建物はベトナム戦争で破壊されたが戦後、復旧された。王宮内での激戦のすごさを物語るのは塀にのこる無数の弾痕や戦車のキャタピラの跡などだ。すべてを破壊する戦争は文明の敵だとつくづく思う。
 朝フォン川を横断した。水上生活者多く、あちこちの舟から朝餉の煙がのぼっている。
 高さ21bの八角塔が立つティエンムー寺。1601年に建てられた格式ある寺だ。大きな鐘の美しい音色はフエの街まで響くそうだ。  カイディン帝廟へも足を延ばした。山肌に建つ廟まで127段ある。カイディン帝が生前から造り始め、死後6年の1931年に完成した。生前から自分の墓を造り、廟を守る石像の馬や象、兵隊、番人の石像をずらりと並べた手法は中国の王陵と似ている。

▼高床式に住む少数民族

 ダナンから空路1時間半でハノイに着いた。首都だが活気はホーチミンの方があるように感じた。ホーチミン廟があるので知られる。暗い廟内に入ると真ん中にホーチミンの遺体がライトに浮き上がる。兵隊が守衛し、見学者が足を止めないように誘導している。
 原住民の生活を知ろうと北へ車で2時間、山岳地区ホアビンに住む少数民族ムオン族を訪ねた。ホアビンの集落から更に未舗装の山道を上がっていくと山肌に弥生時代を思わせる高床式民家点在していた。湿気を防ぎ、野獣などから守るためで、高床の下では水牛や鶏を飼っていた。屋根はヤシの葉で葺いてある。階段の上がり口に竹筒に水が入れてあり、裸足で帰った子供達はこの水で足を洗う。  電気はなく、いろりで薪を焚いて明かりも兼用している。その上で稲を干している。日本農村の原風景を見る思いだ。タピオカをご馳走してくれたが、サツマイモの様な味がした。自家醸造の酒も出た。米が原料といい、透明で焼酎の味がした。

▼国営の高床式ホテルがオープン

 集落の中に砲弾が下げてあった。不発弾の中をくり抜いて鐘として使っているという。戦車の残骸もあった。戦争はこんな山中でも展開されていたのだ。集落の入り口にオープンしたばかりの茅葺きの高床式ホテル(7棟)があった。国営観光公社経営で観光に力を入れ始めたのだ。

▼ドンドン下がるドン

 この国を旅していて困ったのがかさばる紙幣のドンだった。1jが1万700ドンだったが、紙幣は2000ドンがほとんど。ハイネケンビール1本が1万4000ドン、10本注文して困った。14万ドンで、よれよれの2000ドン紙幣70枚払った。しかも貨幣価値はドンドン下がり、この2年で半分になったという。平均月給は85万ドン(1万円)から170万ドン。「2000ドン紙幣だと425枚から850枚。銀行員が計算で泣いています。1000jするバイクなど高価な買い物は金かドル払いが多いですね」とクオンさん。“戦いすんで”今度はドンとの格闘中。ドンのドイモイが急務のよう。


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