「我が輩は山頭火である。しばし彼岸から此岸へ帰って」
枚方・山文舎発行「山頭火文庫通信」6号(平成11年2月)
▼飲んだくれ放浪俳人
我が輩は種田山頭火である。昭和15年10月11日午前4時、伊予の国・松山の一草庵で「いつ死ぬる木の実は播いておく」なる辞世の句を残して(そんな格好いいものではないが)大山澄太君の表現を借りれば「コロリ大往生」した。以来、彼岸で“般若湯”(酒の隠語)を飲んで永遠の眠りについていたが、阿弥陀の情けで、59年ぶりに目が覚め、しばし此岸へ行く許が出たところだ。
▼山頭火ブーム起きる
「人生は、これすべて旅である。この世の此岸から、あの世の彼岸へ永遠に旅をする」というのが実感である。それにしても、此岸にいたときは「飲んだくれの放浪俳人」などと陰口を叩かれたけれど、死後、「自由律の漂白俳人」などともてはやされ“山頭火ブーム”が起きていると聞いてびっくりしたなあ。本当は“漂白廃人”だけどね。なにしろ酒の勢いで酒代の方(かた)に苦し紛れに詠んだ駄句などが、えらく評価されて句碑が500近く建てられたとか。ありがたい、ありがたい。 また、その句碑を全部訪れて写真に撮って出版してくれる熱烈ファンまでいると聞いて涙がチョチョ切れない嬉しさだなモシ。あれ、つい、方言になってしもたぞなモシ。やはり、人間は死ななきゃだめだな。「山頭火死して迷句を残す」か。 俺は山口県出身だが、最後の松山の生活が忘れられず、今、「一草庵」で思い出に浸っている。しかし、世話になった澄太、高橋一洵、藤岡政一君らも鬼籍に入ってしまったのがさみしい。さみしい。
▼よく道路で寝ころんだ
ところで朝日新聞社が昭和47年に出版した『道後物語』に「山頭火日記」という項目がある。一部を紹介しよう。 「忘れもせんぞな。昭和14年11月21日夕方でしたぞなもし。ずぶぬれで山頭火が来ました。私のとっておきの綿入れを着せましたぞな」と松山入りした私を藤岡君が書いている。しかも「酒が好きでしたがな。朝2合、昼3合、夜5合のピッチで1日平均1升空けました」と記者に話している。大山君も「道後温泉によく行きましたがね。私も同行しましたが、強いロイドめがねをかけたままザブンと飛び込んで潜るんですがな。 『ずんぶり湯の中の顔と顔笑ふ』の姿ですわ」と言っている(注・この句の直筆が藤岡宅に残っている)。
▼酒屋へ誓約入れ引き取る
「金がなくなるとメシも食べず、座禅を組んだ。金が入ると温泉に飲みに行き、飲んだくれてよく道路に寝転んでいましたぞなモシ」とか、「金が払えず、居酒屋からよく電話がかかってきて藤岡さんらが引きとりに行きましたぞなもし」「金9円也 右某氏飲食代 昭和15年5月5日御支払い申し上げべく候也 昭和町 高橋始」という誓約書や「65円40銭」という領収書まであるとか。某氏はもちろん俺のことだ。「当時として一晩で65円の飲み代は相当なものだ。山頭火の周囲の人はいい人ばかりだったのだ。いやな顔もせず、後始末をして回った。こんな環境に恵まれていたのが良い作品を生む基礎になったのだろう」などと書かれている。 まったく恥ずかしい。穴にも入れない。やっぱり彼岸に戻るとしよう。さようなら。