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旅行記
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「旅のいろいろ モンゴルを旅して」
尼崎倶楽部での講演「朝食会講話シリーズ」118回 平成5年10月15日
▼▼はじめに
私は尼崎市塚口町に住んで30年になります。途中、転勤で留守をしましたが、余生はここで過ごしますから“尼崎っ子”です。朝日新聞では定年前13年間をレジャー担当編集委員として国内外の旅行記や、旅の歴史、グルメの話などを毎週木曜日の夕刊レジャーワイド面で紹介してきました。定年後も雑誌に酒にまつわる話、新聞に旅行記を執筆しています。今日は手軽な散歩、旅の歴史と、この夏に行ったモンゴルをスライドを映しながら、お話したいと思います。
▼尼崎にもある見応えある散歩コース
「レジャーワイドページ」を担当した最初のころ、週休2日制が普及したので、手軽に近くを歩ける「散歩みち」とイラストレーターの地図付きの欄を設け、イラストレーターと歩いて紹介しました。8冊の本になりました。尼崎もたくさん紹介しました。13年前に「寺町」も書きました。ここは戸田氏鉄・尼崎城主が築城に当たり、戦略上から寺院を集めたものですが、まだ、寺町は今のように脚光を浴びていませんでした。おそらく新聞で寺町を最初に紹介したのは私だと自負しています。昨年、サンケイスポーツで紹介するため、久しぶりに歩きましたが、寺町はびっくりするほどきれいになってびっくりしました。旧尼崎信用金庫本店に「世界の貯金博物館」が出来たり、尼崎城址公園が完成間近かで、いい散歩コースになりました。
阪神電車・大物駅〜大物公園〜「残念さんの墓」も面白いコースです。明治維新をめぐる京都・「蛤御門の変」に敗れた長州藩の山本文之助が大物で捕まり、殺される時に「残念だ!残念だ!」と叫んだので“残念さん”のニックネームが付いたと言いますが、願い事を祈ると、必ずかなえてくれるので有名です。受験のシーズンには、たくさん訪れるそうです。林芙美子の小説『めし』にも、ここで祈願する情景が登場します。
▼旅のルーツは巡礼
最近は「シンガポールでオランウータンとコーヒーを飲もう」「南極でペンギンと遊ぼう」などいろいろなプランを旅行社が企画しています。昔は芭蕉のように句作の旅に出た人もいましたが、やはり旅のルーツは信仰、巡礼の旅でした。四国88カ所遍路旅、西国33カ所巡礼(33は観音菩薩が33身を現して衆生を救う、という法華経からきています)、伊勢参り、金比羅参りなどがありました。
初めは奈良時代、僧侶ら専門家の修行の旅でした。まだ旅館もなく、寺院や民家の、お接待で泊まらせてもらったのです。巡礼の旅が大衆化したのは17〜18世紀の江戸時代からです。特にお伊勢さんは農業の神なので東北地方からの参拝が多かったようです。
▼長男が見聞を広める旅だった伊勢まいり
文献によりますと、成人になった長男は必ず参加しました。いわば大人をリーダーにした「お伊勢参りツアー」で、2ヶ月かけての大旅行でした。しかし、帰りには京都や大阪に寄って芝居を見たり、遊郭で遊んだり、見聞を広める楽しい旅だったのです。こうして「井の中のカエルd」だった長男が世の中の経験を積んで、一回り大きくなって帰り、一家の柱として活躍したのです。イスラム教のメッカへの巡礼やインド・ヒンズー教のガンジス川への旅も有名です。
▼代参犬による身代わり巡礼
江戸時代には旅費がなかったり、忙しくて行けない人が代わりに犬を巡礼に出す伊勢犬、金比羅犬などの代参犬がはやりました。
関西外国語大の豊島和子助教授が研究しています。それによりますと、「伊勢参り」と書き、自分の住所や氏名を記し、道中費用を入れた袋を犬の首に提げて放つのです。道行く人がリレーして連れて行き、伊勢神宮に着くと、社務所では、お札代を取って札を入れ、またリレーして帰したのです。リレーすることで、功徳になる、御利益を分けてもらうのです。現代では考えられないのんびりした時代があったのです。
▼今年は海外旅行自由化30年
ところで、海外旅行が自由化されたのは昭和39年4月で今年が30年です。東京オリンピックの年で、東海道新幹線、名神高速道路が開通した年でもあります。日本が国際的に認められた年といえます。祈念のイベントでサントリーが「トリスを飲んでハワイへ行こう」と、ウイスキーの「トリス」を飲んだ人の中から抽選で100人を8日間のハワイ旅行に招待しました。サントリーに聞いたところ、1人40万円かかったそうです。当時、大学卒の月給が2万円前後でした。1年8ヶ月分の月給に相当したのです。今、ハワイ6日間ツアーで8万円から。この30年で下がったのは「旅行費用と亭主の地位」でしょうか。当時、トリスの小ビンは120円で売れ筋でした。現在、380円ですが、もう酒店でもあまり見かけません。
▼海外旅行者は13万人から1200万人へ
海外旅行が自由化された年は13万人でしたが、46年に96万人、55年には400万人と急ピッチで増え続け今年は1200万人を超えるでしょう。赤ん坊も含めて10人に1人が年1回海外旅行をした計算になります(注・2000年は1800万人)
▼ハネムーンも95%が海外 56年に逆転
なにしろハネムーンも昭和56年(1981)に海外が国内を追い越しました。今年は95%が海外です。行き先も昔はハワイが圧倒的でしたが、4〜5年前からオーストラリアがトップです。JTBの調査では、今年はオーストラリアが33%、ハワイは23%、アメリカ13%、ヨーロッパ12%の順といいます。もう「あこがれのハワイ」ではないのです。特に独身リッチ女性は結婚前にハワイへ友人らと行っているのでハワイ以外を求めるそうです。えらい時代です。こうなりますと、披露宴で司会者も「お2人は九州へ新婚旅行に行かれます」などと、大きな声で紹介出来ない時代になりました。
▼新婚旅行は熱海・白浜から九州〜海外へ
大体、ハネムーンが本格化したのは戦後です。熱海や白浜から始まりました。そして九州は別府、宮崎の日南海岸、北海道、外国だった沖縄、そしてサイパン、グアム、ハワイへとリッチ化したのです。いまでは閑古鳥が鳴く九州は3年前に海外旅行が自由化された隣の韓国へ勧誘に力を入れに行き、相当増えているようです。
▼修学旅行も海外時代
修学旅行は日本の特色といわれます。明治8年(1875)からで、今年は118年目になります。最近は海外旅行が増えています。主として私学ですが、昨年は315校、7万7000人でした。韓国が147校、3万8000人でトップ、次いで台湾です。円高を利用してこれからは更に増えるでしょう。
▼職場の慰安旅行も海外へ ソウルで忘年会
一昨年、1ドル130円でしたが、今年は100円。2割以上円高になっていますが、日本では一向にその御利益に浸れません。ご利益にあずかれるのは海外旅行です。JTBの話では、対円レートで、昨年に比べ、主要ブランド品は15%〜40%安く買えるそうです。リッチな独身女性などがドット買い物ツアーに行く時代です。
昨年暮れに韓国へ行きましたが、日本人がソウルへ忘年会にたくさん来ると現地人はびっくりしていました。岡山、高松、広島〜ソウル間へ定期便の運航をはじめた韓国のアシアナ航空(ALL)が「ソウルで忘年会、新年会をしませんか」と2泊3日2万9800円のパックを売り出したのです。これなら国内で忘年会をするよりはるかに割安です。
先日新聞に出ていたディスカウント店情報では、ロサンゼルス往復6万5000円〜7万円、シンガポール往復5万5000円〜7万円です。大阪〜北海道・千歳が往復5万7300円ですから、海外へ行きたくなりますよ。
大阪の文房具メーカーは昨年、社員3000人をハワイ6日の旅へ招待しました。個人負担は3万円だったそうですが、一流ホテルに泊まり、楽しかったと、感激していたそうです。費用は1人10万円といいますから、会社負担は7万円程度。やはり昨年に四国の通販会社が成績優秀社員5000人をオーストラリアへ招待して話題になりました。昨年まで3泊4日の職場旅行が非課税でしたが、今年から4泊5日に拡大されましたので拍車がかかるでしょう。海外の方が感激度も違い、やる気を起こさせるでしょうう。賢い方法だと思います。
▼海外旅行費はODAの3倍
昨年、日本人が海外で使った航空運賃・ホテル代などの費用から外国人が日本で使った費用を差し引いた国際旅行収支は305億ドルの赤字でした。3兆円以上も日本人が海外で使ったわけです。これは日本が発展途上国に援助しているODAの昨年度の総額の3倍に相当します。昨年の我が国の貿易黒字は1300億j(13兆円)で、世界から稼ぎ過ぎと、非難をうけていますが、国際旅行収支は入っていません。
本当の国際収支は1000億j(10兆円)になるわけです。この点を政府は声を大にして強調すべきです。
【ベールを脱いだモンゴル】
それでは、これからスライドを使ってモンゴルの話に入ります。なぜか、最近、モンゴルのことが、テレビなどで取り上げられるようになりました。これまで旧ソ連の指導体制にあって社会主義の道を歩き、一党独裁で、すべてベールに包まれていました。それが、平成3年(1991)のソ連崩壊で、独自の改革(チェンジ)路線を走り始めました。昨年、国名を「モンゴル人民共和国」から「人民共和」を取って「モンゴル国」に改め、来年から公用語もロシアのキリル文字から本来のモンゴル文字に切り替えることになっています。なんと50年ぶりといいます。文字を変えるのですから、革命的改革です。
経済体制も社会主義計画経済から資本主義の市場経済を取り入れ、懸命にチェンジ中です。しかし、すべての面で遅れが目立ち、物資も不足、世界から援助を待っているのが実状で、国連なども援助に乗り出しています。日本の援助で今年8月末、日本とウランバートル間に国際電話が開通しました。それまで香港経由だったので通話に時間がかかりました。私も開通する前に訪れたので、申し込んで待ちくたびれて取り消したほどです。
▼遊牧民は4割、人口の12倍いる家畜
モンゴル国は北はロシア、南は中国に接し、日本の4倍の広さの国です。人口は200万人で、約4割が遊牧民。羊、山羊、牛、馬、ラクダなど飼育家畜は人口の12倍の2500万頭にのぼっています。北海道と同じ緯度で、冬はマイナス40度になります(注・2000年冬は凍結被害で人間も数人、家畜は数十万頭が凍死した)。標高はウランバートルで1300b、ゴビ砂漠で1500bですから伊吹山程度。シーズンは7、8月で快晴続き、夏でも朝夕は10度、昼25度前後でしのぎやすい気候です。東南は広大なゴビ砂漠。
広辞苑によりますと、ゴビとは「蒙古語で、砂礫を含むステップ(乾燥性草原)のことで、狭義にはゴビ砂漠を指す」とあります。大半は砂礫の中に5〜6aほどの草が粗雑に生えている草原です。
▼近代ビルが林立するウランバートル
首都ウランバートルは活気がありました。人口は60万人で3分の1が集まっている計算です。鉄筋高層ビルもドンドン建ち、高層住宅が出来つつありました。生産工場も増え、火力発電所からはもくもくと黒煙が上がり、スモッグ状態でした。青い空の「モンゴリアンブルー」がこの国の代名詞ですが、いささか色あせてきた感じです。
インフレと失業がひどいと聞きましたが、街には満員のトロリーバスが走り、女性のカラフルなファッションが目に付きました。カップルも肩を組んで歩き、ファミリーは楽しそうにデパートで買い物をしていました。まだ品数が少なく、どこも行列でしたが。物によっては配給制度もあるとか。通貨はツグリで、1ツグリが1円でしたが、観光客はドルが一番便利でした。
しかし、郊外に出ると放牧風景が広がり、空港は周囲を柵で囲んでいました。放牧の羊や馬が滑走路に入り込まないようにするためです。
▼走る佐川急便車
ここでも日本の中古車が走っていました。飛脚を描いた佐川急便車はかなり見ましたが、中古車を扱う業者がいるのです。しかし、そのまま走るのがステータスで格好がいいのです。
▼すべてがマンマンデー
モンゴルではすべてがマンマンデーです。国内線の飛行機は旧ソ連製のアントノフ50人乗りで、プロペラ。しかもダイヤ通りには飛びません。ホジルトから帰る朝、1時間遅れて着陸しました。「すぐUターンする」というので搭乗しましたが、なかなか離陸しません。聞くと、クルーは全員隣村へ朝食を摂りに行っているという。飛行機は砂漠に降りたままですから、馬に乗った少年らが珍しそうに取り囲みます。1時間後、やっと乗員が帰ってきて離陸でした。
▼砂漠はどこでも滑走路
驚いたのはローカル空港には吹き流しだけでコンクリートの滑走路はなく、「砂漠はどこも滑走路 砂塵を上げて離着陸」です。でこぼこ砂漠を滑走するのですから砂塵がすごく振動も相当です。腸捻転を起こすのではないか、と心配したほどです。おまけに補助椅子を出して乗っていますから定員オーバー。車輪もすり減ってツルツルというわけで「空のダンプカー」です。
▼カラフルなゲル チンギス・ハン復活
遊牧民の住居ゲル(中国ではパオ)を訪問しましたが、ゲルは外からみると白い羊の毛でつくったフエルトだけで質素に見えますが、中へ入ってびっくり。実にカラフルなのです。中の天井の支えは大きな番傘の骨のように朱と青塗りで芸術的です。天井は自由にはずせるので、夜は満天の星が見えます。
奥にチンギス・ハン(日本ではジンギスカン)の肖像を飾り、朱色の子供用ベッド、馬乳酒を入れた瓶もあります。木製ベッドは4つは置けます。チベット仏教が普及しているので、ずっと観音像が飾ってあったのですが、ソ連崩壊以来、侵略者として語るのもタブーだったチンギス・ハーンが復活、長い髭すらのハンの肖像が飾ってありました。「ゲルの中チンギス・ハンの肖像まぶし」。
▼お接待は馬乳酒 親子で馬操る
ウランバートルから南へプロペラ機で1時間半の南ゴビで訪れたラクダを飼う遊牧民のゲルには、家族の写真がたくさん飾ってありました。子供のベッドには、可愛らしい人形がたくさん置いてありました。どのゲルでもお茶の代わりに馬乳酒の接待です。その名の通り、馬乳を発酵させたアルコール分3%の酒ですが、ヨーグルトを薄めて酸っぱくした味がしました。
ところでこのゲルは1時間で組み立てられるそうです。春から夏にかけて水と草を求めて、冬は強風をさけて山麓へ移動します。昔は移動もラクダの背中に積むなど大変だったそうですが、今はトラックやオートバイを持つ遊牧民が多くなり、ローソクでなく、自家発電機が増えて近代的な移動生活になったそうです。子供はウランバートルで学校の宿舎生活です。
▼燃料は糞
ただ燃料は依然、家畜の糞を乾かして使います。ですからゲルの外には糞が積み上げてありました。トイレは有りません。青空で用を足すのです。馬で走る騎馬民族の伝統は息づいています。親子で馬に乗った姿をよく見ました。子供は器用に馬を操っていました。「大草原 走る少年 ハンの姿重ね」。
▼観光で稼ぐ
国は観光で稼ごうと懸命。観光用ゲル・キャンプを造っています。たいてい20〜30並んでいます。夜には自家発電で裸電球が灯ります。南ゴビのマンダハヤは空港そばにゲル・キャンプがあり、別棟にシャワー室や水洗トイレまで。食堂は大きなゲルを模したもので、2階にバーまでありました。ここまで近代化して“ナンダハヤ”という感じでした。
▼満天に大きな星、人工衛星も見える
ホジルトから南ゴビへの飛行中、下を見ると、赤い地肌の部分やうっすらと緑地帯、白く岩塩が顔を出しているなどさまざまなゴビ砂漠が広がっていました。
「米粒は羊群 白饅頭はゲル 眼下のゴビ砂漠」という感じで放牧風景があちこちに展開します。南ゴビまで来ますと、空は雲一つない青空。「モンゴリアンブルー 稜線の羊群が雲食べたから」です。
圧巻は夜の空でした。ゲルから毛布を持ち出して砂漠に寝ころび、空を仰ぐと満天の星です。おびただしい大きな星が一斉にウインク。司馬遼太郎『街道を行く モンゴル紀行』の表現を借りますと「うかつに物を言えば星に届いて声が星から返ってきそうなほどに天が近かった」のです。
流星も雨のよう。人工衛星が光跡を残して右から、左から走るのもカンドー的でした。「流れ星降る 光跡描き衛星飛ぶ 砂漠の満天空」
夜10時になると10度前後に冷えます。モンゴリアン・ウオツカ「CHINGGIS KHAN」(チンギス・ハン)40度を飲みました。500ml5jと安い。
▼砂漠は恐竜銀座だった
太古のゴビ砂漠には恐竜がうようよしていたそうで「恐竜銀座」だったと現地で聞きました。そういえば、この夏、ゴビ砂漠で化石発掘調査をしていた近畿大学教授が、イグアナドンなど大量の恐竜化石を発見したことが日経新聞に載っていましたが、その教授は「小さな骨の破片を見つけて掘っていくと恐竜全体の化石が出てくる。その感動が忘れられない」と述べていました。
▼「恐竜の卵いらんかね」
ウランバートルの国立中央博物館は別名「恐竜博物館」といわれているそうで、骨格から復元した巨大恐竜や、たくさんの化石、卵の化石、太古の想像図まで展示されていました。もともと1922年に南ゴビに入った米国調査隊が初めて恐竜の化石を発見したのです。南ゴビの山沿いにも小さな博物館があって、恐竜の骨格化石から卵まで展示されていました。卵の化石を盗掘して売り歩く商売があるそうです。
先頃、恐竜の卵の化石がオークションにかけられ、850万円で恐竜映画「ジュラシック・パーク」の監督スピルバーグが落札して話題になりました。実は私もウランバートルの街角で「恐竜の卵はいらないか」と声を掛けられました。
▼砂漠にエーデエルワイスの群落
恐竜が生息していたという草原砂漠には、今のんびりと草をはむ羊や馬、ラクダがいっぱいです。が、草花も咲いてお花畑のようでした。南ゴビを車で走っていたら、一面ピンクのところがあり、見に行くとニラの花のよう。野菊のジュウタン地帯もあります。スイスで見るエーデエルワイスの群落は感動的でした。
南のヨリーンアム渓谷へ行ったときです。紫のラベンダーのような群落がありました。強い匂いを漂わせて。リンドウ、ウスユキソウ、ワレモコウなどの花も見ました。山の上で「メー、メー」と声がするので見ると野性の山羊でした。愛くるしい鳴きキウサギもいました。ステップ砂漠は以外にやさしい一面を持っていたのです。しかし、馬やラクダの白骨もあちこちで見ました。
「白骨ラクダ 魂は満天の星に」「砂漠は生きている エーデルワイス トカゲに鳴きウサギ」
▼英雄チンギス・ハン
モンゴル帝国の創設者で本名は「鉄木真(テムジン)」。モンゴル族を統一し1206年、ハンの位につき、「成吉思汗」と号した、と広辞苑にあります。中国から中央アジア、ソ連、東欧、ペルシャまで統一しました。モンゴル文字も彼がウイグル文字を基本にして作ったといいます。
▼侵略者で1時期歴史上から消える
だが、統一させられた側に立つと、憎き侵略者になるわけで、ロシアの衛星国だった間は口にするのもタブー、歴史上から抹殺されていました。今年が生誕826年になり、「生誕800年祭」が実施されたそうです。墓の発掘調査も行われていましが、まだ発見されていません。日本ではジンギスカン鍋などが有名ですが、羊を多く飼育することからその名が付いたようです。
▼蒙古襲来とノモンハン事件
モンゴルと日本は昔から見えない糸で結ばれていると言っていいでしょう。蒙古(モンゴル)帝国第5代皇帝フビライが中国を平定して国名を「元」としましたが、この元軍が鎌倉時代の1274年(文永11)と1281年(弘安4)に日本攻撃を目指して大船団で壱岐、対馬を侵して博多に迫ったのです。しかし、2回とも嵐が吹いて船が大破し、元軍は敗退しました。あまりにタイミングが良い嵐の援軍に、“神風”が吹いたと信じられました。文永・弘安の役として有名です。
日本も蒙古を侵略しようとしたことがあります。昭和14年(1939)に起きた「ノモンハン事件」です。当時、満州(中国東北部)支配の中核だった日本の関東軍が、モンゴル支配をねらってモンゴルと中国の国境で、ソ連・モンゴル軍と国境紛争を起こし、日本軍が敗退したのです。
そして日本が第2次大戦に敗れると、ソ連は当時の満州を支配していた日本人を捕虜にしてシベリアやモンゴルなどに連行、強制労働させました。モンゴルでは1割強の1700人近くが死に、ウランバートルの日本人墓地に眠っています。
▼日本の乳児にも出る蒙古斑
幼児のお尻に出来る紫の斑点は蒙古斑(もうこはん)といいます。蒙古系人種にできるといわれ、日本人のルーツは蒙古人では?との見方があります。そういえばモンゴル人と日本人は似ているともいわれ、チンギス・ハンの日本人説を唱える向きもあります。モンゴルには日本に似た蒙古相撲もあります(注・最近、小結・朝青龍や前頭・旭鷲山など日本の相撲界で活躍するモンゴル人が増えています)。こうしたことが、日本人に親近感を持たせるのでしょう。昨年、世界からモンゴルを訪れた6000人の観光客の半数は日本人でした。
▼万里の長城、越すに越せないモンゴル馬
モンゴルからの帰り、北京空港近くまで来たとき、眼下に万里の長城が見えました。巨大な龍のように山また山を越えて延びています。中国の東端の山海関から西は嘉峪関(かよくかん)まで2500`におよびます。人工衛星からも見えるそうです。
なにしろ日本の鹿児島から北海道・札幌間に相当するのです。北京周辺では高さが6〜7bあります。こんなすごい城壁を紀元前300年の始皇帝時代から紀元1000年にかけて人力で造ったわけでオドロキです。北からの騎馬民族の侵略を防ぐためでしたが、モンゴル馬はサラブレッドとは違い、ずんぐり型で短足です。今も同じでした。これでは万里の長城を越えて攻め込むのはむりなことを今度、現地を訪れて実感し、長城構築戦略がわかりました。1万体以上ともいわれる始皇帝墓の地下防衛隊「兵馬俑」といい、中国民族のやることはスケールが大きいと、つくづく感心した次第です。
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