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琵琶湖大橋を架けた男逝く


加能人 2001年8月号掲載


 「吉原君、俺は今年12月で辞めて東京へ帰る。4、5年後に石川県から衆議院に出るからよろしく頼むよ。ついては、爺さん(谷口知事のこと)の夢である琵琶湖大橋を爺さんの任期中(12月6日)に民間資金で架けることにしたよ。爺さんへの土産だ」、元滋賀県副知事で、石川県選出衆議院議員だった桂木鉄夫氏が7月9日80歳で死去した訃報を聞いて、昔、桂木氏が突然、言い出した言葉が浮かんだ。
 それは今から40年前の昭和37年1月10日前後だった。桂木副知事宅で私と2人でボタン鍋をつついていた時、副知事が言い出したのだ。私は酔いも醒めた。
「で、資金はどうするのですか?」と聞くと「大手商社に頼んで出してもらう。10億円程度だから、内諾を得ている。だって君、橋の両岸の付加価値は高まり、損をすることはないよ」。さすが商才にたけた民間出身らしい発想だと思った。
  私は昭和36年(1961)春から朝日新聞大津支局勤務で滋賀県政を担当した。桂木氏は34年7月、ヤンマー・ジーゼル山岡社長の元秘書の肩書きで副知事に選任された。当時の谷口知事は既に70歳を超えていた。その補佐として、弱冠38歳で就任した異色人事。滋賀県の農家に下請けの農村工場を経営させるなど県下で大きな影響力を持っていたヤンマーが知事をバックアップするために送り込んだ、という説がもっぱらだった。
 桂木氏(旧金沢一中卒)は私と同郷の石川県出身だったことから、特に親しくしてもらった。「おーい、今日、イノシシが来たので来いよ。ボタン鍋を食べよう」などとしばしば電話をもらった。  琵琶湖が一番くびれた堅田〜守山間に橋を架けるのは知事が就任当時からの夢。しかし、道路公団もいい返事をせず、資金力が問題となり宙に浮いていた。辞める覚悟を固めた桂木副知事が、今流行の民間活力を利用する「PFI」(プライベート・ファイナンス・イニシアチィブ)方式で決断したのだ。
 当然、副知事辞任も含めて特ダネ記事にした。昭和37年1月17日の朝日新聞滋賀版には、知事が「今年中に着工する。副知事が今日、不在なのも橋の問題と関係がある」と含みのある答弁をしたとか、「副知事は16日、関西のある民間会社に縁故債の引き受け依頼に出向いたと見られる」などとある。
 私は37年8月に本社へ転勤になり、桂木氏も同年12月に辞任して、東京・八重洲地下街の社長に戻った。
 琵琶湖大橋(長さ1350b、幅9b、水面からの高さ20b・JR湖西線・堅田駅から歩いて15分・総工費15億円)は桂木副知事の肝いりで、予定通り37年11月着工、東京オリンピックに合わせるように39年9月完成した。今や湖畔にはレジャーランド、ホテルが林立するなど観光の目玉になっている。この橋は事実上、桂木氏が架けた橋といっていい。
 桂木氏は、私に予言した通り、5年後の昭和42年、石川一区から衆議院議員に当選1期勤めた。
 事後談がある。昭和49年、偶然、小生は金沢支局長で赴任した。桂木氏は既に代議士は辞め東京に帰っていたが、駅前に「桂木事務所」があった。電話したら丁度、来沢中で会い、旧東山のお茶屋街で夜の更けるのも忘れて、琵琶湖大橋にまつわる裏話などに花を咲かせたのが忘れられない。
 それにしても「計画した事を確実に実行したすごい男」は惜しくもこの世を去った。合掌。 

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