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細うでアイデア便


朝日新聞 1983年2月7日(夕刊)から3回掲載分


 朝日新聞夕刊(1983年=昭和58)に連載した 聞き書き「その時私は」その時、如何に乗り越えるか
 人間は誰でも転機に立つことがある。「その時、如何に乗り越えるか」で人生が分かれる。見事、乗り越え成功している人を取り上げたのが、この企画で、反響が大きかった。
 取り上げたのはアート引越センター(現アートコーポレーション)の女社長、寺田千代乃さん、ベビーカーを開発した横田・マンテン会長、鑑真和上が開創した唐招提寺の中興の祖といわれた森本長老。取材してみて、人生は「筋書きのないドラマだ」とつくづく感じた。

▼すぐアイデアを取り込んだ女社長

 特に寺田アート引越センター社長を取材した時、「せめて5年連記の日記帳をつけるといいですよ」と提言。例えば、A君が結婚した日を欄外に目立つように赤ペンで書いておく。翌年、日記帳を見ると、「明日結婚1年」などとわかるので、ささやかな記念品を用意して「結婚1年おめでとう」と記念品を渡す。「社長は俺の結婚式の日まで知っている、と感激してくれます。人事管理に役立ちます」と。1年後、「早速、5年連記を付けて大変、役立っています。有り難う」と手紙をもらった。「成長する社長は役立つアイデアをすぐ取り入れる」と感心した。

昭和58年2月7日付から3回掲載 【細うでアイデア便】 アート引越センター社長 寺田 千代乃

▼ 引っ越し専門便誕生は51年

 今でこそ「サカイ引越センター」など引っ越し専門業者が林立しているが、昔は「日通」(日本通運・今のペリカン便)しかなかった。しかも日通は元国鉄系なので「運んでやる」という姿勢でサービスは悪かった。平均2年に1度(10ヶ月で転勤もあった)転勤していた記者にとって、引っ越し専門業者誕生は有り難かった。そのルーツが主婦、寺田さんのアイデアから昭和51年に誕生した。

▼父の事業失敗、高校進学あきらめ

 《父親の事業失敗で、それまでの恵まれた生活が一転、苦難の道へ。小学校2年の時。高校進学もあきらめた》 父が保証人になっていた人が事業に失敗し、全部ひっかぶってしまったんです。神戸市長田区で化粧品店を経営したのですが、すべて手放しました。他人の面倒見がよく、人の出入りが多かったですが、裏目に出たんですね。

▼一家で東京まで借金行脚へ

 東京にいる父の親友らを頼って一家で出かけました。しかし、いざとなると世の中は厳しいですね。何人も訪ねましたが、手を貸してくれる人はいなかった。父が借金を頼みに行っている間、近くの公園で待っていた辛い記憶が鮮明に残っています。その時、子供心に「大変なことになったんだなあ」と思いました。  なにしろ、それまでは、欲しい物は何でも手に入る生活で、着る物にしても、いつもあか抜けしていたようで「かわいいわね」と小学校の先生たちから言われるのが、楽しみだったんですもの。

▼父は働きに、転職3度の苦労

   東京をあきらめて大阪へ戻り、友人を何人も訪ねたのですが、結局だめでした。西成区に家を借りて父は働きに出ました。でも、いろいろあったようで3度も転職しました。その父は昨年、亡くなりましたが。

▼中学1年からアルバイト

 私は萩之茶屋小学校から今宮中学校へ進みましたが、家の状況から「あれ買って欲しい、なんて言えない」と自己規制するようになりました。中学1年の時から叔父の化粧品店でアルバイトしたんです。2人姉妹でしたが、妹が1つ下でしたし、高校へ行きたいとは言えませんでした。

▼料理を学び、運転免許も取る

 その代わり、技術を身につけようと、昭和37年に中学を卒業するなり、アルバイトをしながら、和文タイプライターを学び、料理を覚え、運転免許も取りました。
 そのころ和泉市に転居しましたが、近くのインテリア経営者から手伝ってほしい、と言われ、やってみると面白いんです。ちょうど、室内インテリアが脚光を浴び始めた時でした。そのうち、ある商事会社がインテリア部門をつくるので来ないか、と誘われ、社員第1号になりました。楽しかったですね。この壁にはこのカーテンと決めると、その通りになるでしょう。

▼親の猛反対を押し切り夫婦で運送会社スタート

  《結婚して2人で運送業を始めたのが、昭和43年(1968)9月。高度成長の波に乗って1時はよかったのですが、オイルショックでピンチに》  主人とはグループで付き合っていたのですが、何となく、この人と結婚するんだ、という気になっていました。
 そのころ主人は兄の友人の運送店でトラック運転手をしていたんです。その店の経営者が、経営に自信をなくし、主人にやらないか、と持ちかけてきたんです。だが、1人じゃ出来ない。どちらかといえば商売が好きだった私が賛成し、2人で運送会社をすることになったんです。  だが、堅い商売の酒屋をやっていた主人の親に猛反対されましてね。運送業をやるなら援助はしない。保証人にもならない、と言われましてね。  押し切って結婚し、トラック2台で寺田運輸を始めたんです。私が21歳、主人が23歳でした。
 鋼材会社と専属契約を結んだまま引き受けたのですが、車の代金は、その鋼材会社が払う契約。だが、運送費から車代などを差し引かれた残りをもらう仕組みで、雇った運転手に給料を払うと、食べるのが精一杯でした。主人は懸命に働きました。私も簿記などを勉強して経理をやり、それこそわき目もふらず働きました。

▼事業を拡大したが、儲からず

 高度成長期だったので、仕事はいくらでもあったのです。事業も拡大し、車が16台、従業員も20人になりました。だが、正直いって儲かりませんでした。この世界は特殊で、毎月の稼ぎの中から車代のほかに、バックマージンを取られるという仕組みなんです。これだけ吸い取られたら、将来の見通しも立ちません。
 で、47年に鋼材会社から出て、主人が社長の会社をつくりました。必死でいろんな仕事を取りましたよ。立石電機(現在のオムロン)に常雇いで1台だけ、入れた時はほっとしました。

▼助手席に子供2人乗せ、問題に

 時々臨時にあと1台分の注文をくれたので、私が運転し、助手席に3歳と2歳の我が子を乗せました。ある日、呼び出されて、子供を乗せることをとがめられたので「臨時の仕事に運転手は雇えない」と言ったら、やっと認めてくれました。
 でも、やがてオイルショックが来て仕事がなくなりました。そのころは東大阪市に会社があったのですが、赤字は増える一方で、資本金の2・5倍の2500万円にもなり、大ピンチに立たされました。

▼初の引っ越し専門運送を始める

  《遊んでいるトラックを利用して副業をやり、ピンチを救おうと引っ越し専門の会社をつくった。51年6月》 本当はどんな仕事でもよかったのです。だが、資金がない。あるのは車と社員だけ。 ある日、引っ越し費用として大阪府下で年間に150億円も動いていることが新聞に出ていたのが目に止まりました。そういえば、これまでに引っ越し仕事が時々あった。友人に聞いても「日通に頼んでいる」というだけで、他に専門業者がいない。これならやれそうだと「引っ越し専門」に踏み切ったのです。

▼電話帳の最初に載るため「アート」に

 注文を受けるには電話帳のはじめに載ることが有利と考えました。「ア」の次の字は長音の「−」が先にくることを知ったのと、私がアートフラワーが好きだったこと、引っ越しを「アート」にしたい、という願いを込めて社名に「アート」と付けたのです。

▼トラック3台でスタート

 大東市の主人の会社の横で、トラック3台に、従業員は主人の会社兼務を入れて7人。翌年に会社にし、私が社長、主人を専務にしました。新聞に3行広告出したり、口コミなどでPRしました。初めから注文も多く、その日のうちに現金が入るのがありがたかったですね。

▼主婦の発想・コンテナを消毒などのアイデア

 コンテナ車にしたのは引っ越し荷物を他人に見られるのはいい気持ちがしない、という主婦の心理からでした。これが受けました。でもはじめは、お金がなかったので、中古車屋へ行ってパン屋が使ったコンテナを買ってきて、ペンキを塗り替えたりして…。コンテナだから密閉出来る。その利点を生かして、引っ越し先へ着くまでに殺虫消毒を考えたんです。

▼挨拶の煎餅配りは我が家の引っ越しがヒント

 引っ越す家のご近所と、引っ越し先の、向こう三軒両隣に、ご挨拶として「よろしく」という煎餅セットをお配りしていますが、これは我が家が奈良市へ引っ越した時のヒントです。外で遊んでいた子に「今度引っ越して来たの。うちの子と仲良くしてね」と言ったら「おばちゃん、挨拶もないので知らんわ」といわれましてね。あわてて品物を買って近所を挨拶して回った経験を生かしたのです。  運ぶのは主人の会社にやってもらっていますが、和洋それぞれの部屋を持ったコンテナ車を使ってます。家族ぐるみ車ごとの引っ越しも承っていまっすが、お客の希望で和洋を選んでもらっています。

▼瓦上げコンベヤのヒントで電動はしごを考案

 電動はしごで外から荷物を上げ下ろしするのは、家屋建築現場でベルトコンベアを使い屋根に瓦を上げていたのがヒント。コンテナをそのまま持ち上げて入れるリフトは、引っ越し経験からです。特にピアノはこれで助かりました。
 電気工事、換気扇や台所、トイレを中心にした掃除は別料金ですが、これは主婦としての私の目線で見てのアイデアです。常にヒントになるものはないかと心がけています。

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