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【1事10年のえにし】奈良・唐招提寺 長老 森本 孝順


朝日新聞 1982年9月13日(夕刊)から3回掲載分の要約


《鑑真和上創建の寺だが、“奈良の破れ寺”といわれるほど荒れていたのを、戦後、長老になった森本氏が立派な寺院にした。正門の南大門を再建、鑑真和上像を安置する御影堂を興福寺の建物をもらって造り、襖絵を東山画伯に描いてもらった。惜しくも平成7年に没したが、“中興の祖”といえよう》
 奈良県磯城郡多村(現・田原本町)に生まれた。小学5年で京都・壬生寺に小僧に出された。一番やんちゃで、師匠の北川智海長老から、にらまれどうしでした。そんな時の昭和2年、25歳で初恋に落ち、一人悶々の毎日でした。そのうち相手に縁談が持ち上がったんです。肉食妻帯を許さぬ戒律寺だけに悩みました。
 「立派なお坊さんになっておくれ」と涙で見送ってくれたおふくろの顔が浮かぶし、剃髪、得度の際に授けられた「孝順」の法名も重くのしかかる。梵網経の中に「父母、師僧、三宝に孝順すべし。孝順は至道の法、孝を名づけて戒となす」とあるんです。
 悩みあぐんだ結果、厳島弥山(広島県)へ修行のわらじを履き山上にある求聞持堂に1人こもって、虚空蔵菩薩の真言を百万べん百日間唱え続けたんです。はじめは妄念、妄想が去来して、気が狂いそうでした。この状態は、釈迦八相の降魔に当たるのでしょうか。しかし、満願近くなると、霧が晴れたように、身も心もすがすがしくなりました。 それっきり、彼女のことは忘れていたんですが、28年1月、東京・松坂屋で唐招提寺展を開いた時です。ひょっこり、その女性が会場に現れましてね。なんでも、ご主人が大会社に勤めているとのこと。いやぁ、びっくり。でも2人とも、もういい年でしたから、クールでしたよ。
 これがきっかけで、34年から再興した11月17日の「唐招提寺写経会」に、欠かさず、姪達を連れて来てくれるんです。この日は私の誕生日でもあるんです。 当時、あの参籠で何か功徳があったんやろうか、と自問自答したものですが、今になって良かったとしみじみ思います。
 何か困難にぶち当たったとき、不思議に適切なアイデアが浮かび、今日まで切り抜けてこられたのも、あの修行のおかげ、と感謝しています。もちろん、80に手の届く現在まで独身を貫けたのも。
 《長老になったのが昭和21年6月。破れ大時の再建が待っていた》  当時は貧乏寺で壬生寺の北川智海住職が長老を兼ねていましたが、21年3月に遷化され、跡を継いだんです。45歳でした。今の正門の南大門はなかったし、講堂も柱がずれていたんです。終戦直後で、まだ、拝観料収入もない。大体、奈良の寺は檀家がないのです。年貢米で賄っていたのです。この寺も350石の田畑があったが、明治の廃仏毀釈と農地開放で、すっからかんになりました。幸い、五条市の自坊は400戸近い檀家があったので、そこの収入をこちらへ注ぎ込んだのです。
 大仕事の1つは、創建1200年記念に南大門の再建を考えたのです。幸い調査によって天平の遺稿礎石12個がそのまま見つかったので、昔の姿での復元をと。しかし、懐が乏しい。できるだけ安くと、大工を連れて高野山までヒノキの原木を買い付けに行きました。2等材の半値の3等材に目を付け、その中から良質材を選んで、トラックで運びましたよ。35年の完成ですが、お陰で安う出来ました。
 次が御影堂(みえいどう)です。当時、開山さん(鑑真和上)は小さな建物の中におられました。これではお気の毒と気になっていたのです。ちょうど元・興福寺一乗条院門跡の宸殿を使用していた奈良地裁が新築するので、この建物を処分するというので、当時の奥田知事に、お願いして、県が払い下げを受け、打ちが土地を提供することで話しがついたのです。
 が、移築復元には金がかかる。由緒ある建物だし、重要文化財に指定してもらえば、国の補助が頂けるので文化庁へ申請したのです。ところが、「このクラスの建物なら、いくらでもある」と相手にしてくれない。東京へ日参して役人を口説き落としましたがな。完成は和上の円寂(死)1200年に当たる38年に間に合わず、翌年に合わせて法要しました。
 これまでに境内整備は収蔵庫、塔頭2ケ寺、茶室など棟上げした建物はざっと20あります。それも金がないから廃物利用が多いんです。人は私を“中興の祖”とか言ってるようですが、まあ、“中古(活用)の祖ですわな。もともと講堂は平城宮の朝集殿の利用というように、中古の活用が和上の精神でもあります。こうした努力が御影堂を東山魁夷・画伯先生の障壁画で飾る、という最高の形で和上さんを慰めることにつながったと感謝しています。

 《鑑真和上座像の中国里帰りは55年春に実現したが、それまでの道程は長かった。正式に決定したのは54年春だった》
 1200年前に12年もかけ、盲目になられてまで来日された御開山さん(鑑真)ですから、私が長老になった時から1度、祖国をお見せしたい、と念じていました。
 あれは40年のはじめでした。文化大革命の最中でしたが、京都・妙心寺の山田無文老師から「中国は良くなりました。治安も完全で、衣食住とも平等な菩薩の国です」といわれた。「それなら和上にお里帰りを願ってもいい」と思い、以来、来寺される中国要人に打診したが、一向に反応がないのです。しびれを切らしている時に「パリで公開したい」との話しが持ち上がりました。世界的に優れた審美眼を持つフランスの、しかも一流美術館ということのほかに、本家の中国を頭越しにパリへ行けば、中国への刺激にもなるだろう、との思いがあって承諾しました。
 予想通り、52年春のパリ出展は大好評でした。これが、多少なりとも中国へ影響を与えたことは、その3年後に里帰りが実現したことからも明らかでしょう。が、それまでにも、いろいろと障害がありました。ある時は文化庁へ呼ばれて、「里帰りをにしてるが、外交上のこともあるし、国宝を国外へ持ち出すには難しいもんだいもある。謹んでほしい」と釘を刺されました。しかし、寺側としても「勝手に国宝に指定して、管理権を振り回すのなら指定を辞退する」と喧嘩までしました。
 53年10月28日に?小平副首相が奈良へ来られた時に、事前に国から県の幹部に「副首相の前で長老が里帰りの話しをしないように口止めしてほしい」と電話が入ったと聞きましたわ。私も今日は言わないでおこうと思ったのですが、境内で副首相と話しをするうちに、つい口を滑らしてしまったんです。すると、即座に「和上と長老をお迎えします」と言われたので、「有り難うございます」と言って抱きついてしまったのです。「長老、気でも狂ったのやないか」 と記者さんから言われたほどです。それから、正式通知の来るまでが長かったこと。  結果的に、中国の100万人の熱烈歓迎を受け、肩の荷がおりましたよ。くしくも和上さんが来日された時と同じ12年かけて里帰りを果たしたわけで、これも不思議な縁ですね。
 それにしても、南大門再建、東山先生の障壁画などすべて“一事10年”といいますか、計画して完成まで10年から12年です。和上さんと私は不思議な糸でつながれているのでしょうね。

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