阪神大震災と学校の周辺  NEXT


 ひとりの震災ウォーク

 10年前、私の勤務先が兵庫区にありました。震災直後、建物と駐車場に2000人を超す人々が避難をされました。全国から送られてくる支援物資の整理と配布を泊り込みで行いました。
 私の自宅はたまたま岩盤が硬かったのか大きな被害はありませんでした。被災に「あう・あわない」、家族に犠牲者が「出る・出ない」は、住んでいる場所等の偶然に支配されたように思います。私は、1・17のセレモニーへ今まで参加をすることはありませんでした。毎年この時期になると特別番組を見ながら、「被災された方は大変だ」と見ているだけでした。
 追悼集会の場は、「被災しなかった私が踏み込むべき場ではない」、という思いがどこかにありました。興味本位とも思われかねないことへの遠慮があったのです。 走り続けた現職を2年前に退きました。散策の途中で“市民手作り新聞”スタッフ募集のチラシが目に留まりました。第二ステージに入ると、世間が狭くなります。「新しい広がりがあるかも知れない」と気軽な気持ちで応募をしました。遅れて参加した“市民レポーター”の私は、編集会議の中でもう一度震災との関わりを問い直す機会になったのです。スタッフの構成は、学生・主婦・私のような立場の方々などバラエティに富んでいます。ボランテァ活動に関心がある人や、趣味のカメラを活かしたいなど動機も立場も多様です。共通しているのは旺盛な好奇心が原動力というところでしょうか。「やれるときにやりたい事をやる」という揺るやかな自主性に任された集まりでもあります。
 私の場合、16と17の両日で5箇所のイベント企画会場を取材しました。市民手作り新聞のスタッフであることを告げると、代表の方は快く時間を取り、自分たちの企画へ思いを熱く話されます。この光景は、かつて震災時、電車で隣り合わせた見ず知らずの人同士が自然に話しあったのに似ていました。10年経過し、「風化させてはいけない」という思いを我々編集スタッフを通して伝えておられるのだということがわかりました。 17日は、10年前に避難所であった場所を訪れ、そこから三宮のメイン会場まで一人で歩きました。
 途中の商店街では、正午に追悼があり、そばを無料配布し寄付された募金をスマトラ沖地震へ全額寄付するという店もありました。震災直後にはあったお互いへの関心が、それぞれの生活の殻の中へ閉じこもっていたということに、歩きながら気づきました。 現在の高校1年生が被災当時、幼稚園の年長組です。やがて急速に震災体験の記憶がない世代が増えてきます。伝えていくべきことをそれぞれの立場で何ができるか考えることから、“これからするコト”が見つかるような気がします。

2005/02/02発行の第2号に
「体験を風化させない」と語る人の思い・・・胸に
という見出しの元原稿です。

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