阪神大震災と学校の周辺  NEXT


 ◆長田・兵庫区そして避難場所学校 1/21

 兵庫区に学校がある「ごくありふれた教師」が体験した一日のまとめを報告をしてみたいと思います。

1. 学校までの道筋
18日午後3時から神戸市営地下鉄の西神←→板宿間が部分開通のニュースが流れたので登校することにする。20分間隔の運転でかなりの混雑。背広姿は見られず一様にリュックを背負って親戚を尋ねる人や避難先から家の様子を見る人達である。ホームで顔見知り同士の安堵の挨拶や会話がそこここに見られる。
かなりの混雑の中を板宿駅に到着。一カ所だけ地上への出口があって他は閉鎖。地下鉄の天井から水漏れがある。
地上に出るとそれまでの光景と異なり、ヘリやパトカーの騒音。自転車とミニバイクがはばを効かせる。
ゴムの焼けるような異臭と共に信じられない光景が延々と続く。倒壊して道路を塞ぐ建物。一見被害のないような建物も傾斜したり亀裂が走りほとんどの建造物が何らかの被害を受けている。
かって見慣れた店も焼失してしまい遠くまで焼け落ちたその先に鉄骨の残骸が見られる。ここから、学校まで徒歩1時間ほどである。長田地区に入るにつれ構造物の被害はさらに強まる。通常なら立ち入り禁止になるような崩れかかったビルや倒れた電柱の下をひたすら東に向かって歩く。
長田地区の惨状はさらに広まるばかり。途中の乗用車を覗くと毛布が敷かれ車中で生活としているようである。交通規制のために乗用車はそんなに多くなく自転車とバイクが交通手段になっている。

2. 学校では1500人の被災者
1500人の被災者が体育館、武道場、柔道場などに一時は2000人。トイレもプールの水を早朝にドラム缶へ運び使用の度に流すようにしたために他の避難区域に比較して衛生状態は保たれているとのこと。
避難して二日目になり食料の配付ルートもリーダーの下に自然発生的に出来上がって更衣室、武道場、廊下(部屋とはいえないが)ごとに係を決め時間になると集まる。そこで、不定期に大量に入る物資の配分をする。本校職員で自身も家族を体育館に避難させている若い教師が学校側の窓口になりテキパキと指示する。一律に1500人もの同質の食料はなく弁当の内容にも差があるが、彼の配分に従わないと流れが確保できないし公正なので指令塔になっている。「きちんと確保しないと幼児や女性にゆきわたりませんから」という。

3. 校舎内外の点検
事務室の電話を使用して生徒の安否と被害状況の調査。最初、生徒の半数が電話が通じにくく連絡がとれない。ほぼ一日かかって8割は連絡がつく。兵庫、長田区の震災地区に連絡のつかない部分が集中。家が全壊、焼失が27世帯。ただし実際はもっと増えるだろう。両親が死亡、あるいは母親が死亡という生徒がいるが連絡がとれない。避難所には各学校の「生徒は安否を学校に連絡しなさい」という張り紙や個人の安否を問う張り紙がある。
ペアになって校舎内の建物の様子を調べ写真をとる。建物が「ロの字」型になっており角の部分で接合部分の金属が窓側に半円形の凹凸ができていてた。グランドは液状化現象と亀裂で黒く汚れている。
電気科の600vまで出せる高圧発生器が横転、買い換えになれば600万円とか。機械科では、入れたばかりの3D-CAD実習室のパソコン転倒。旋盤実習の旋盤もかなりがずれている。あの重いものをどのように戻すのだろう。デザイン科の石膏像大量破損。工業化学は、実験器具破損。薬品室では塩素系の異臭。土木科も実習用器具が横転し支える軸受けが傷ついて真っ直ぐにならず危険。校舎部分は幸い使用できるが工業高校の実習関係の復旧と安全を確かめての平常授業の再開はかなり先の話になりそう。

4. 深夜の事務室
午後9時、某食料品会社がボランティアで肉だんご汁の提供を申し出る。遅いためか300食ほど行列で渡す。プロパンガス、釜、発砲スチロールの丼と箸、などワゴン車につめこみすべて持ち込みで温かい「しるもの」の提供。宣伝臭も一切ない。最後に余ったものを本部詰めもいただく。管理職以外に泊まれる教師がローテーションを組んで仮眠体制でつめる。すでに前日から詰めている方も10人ほど徹夜状態でかなり疲労している。
PM:11時ごろ弁当はないかと女性5人が見える。他の避難所にいてそこで配付された焼きそばが腐っていて食事をとってないという。新しいおにぎりを渡す。0時ごろ見回りの職員が毛布を探しに事務室に戻ってくる。聞くと泊まるところがなく他の場所から本校きたうちの生徒が体育館の玄関脇で膝を抱えて夜明けを待っているのだという。毛布を渡す。さらにPM 1時ごろ赤ちゃんを背負った母親が風邪薬はないかといってくる。「改源」を二日分と水と簡易体温計を渡す。毛布が1枚しかないとのことなので2枚追加。「ありがとうございます。ありがとうございます」とつぶやくように言われる。
時々、避難所にいる友人の呼出とか安否の問い合わせが入るが、対応できない。深夜というより20日の未明2時ごろ、ダンプ車でかってない量の食料6000食分が復旧本部から送られる。稲美町と小野市からのおにぎりとパン。校舎内に運ばないと凍結してしまう。被災者からの若者を中心に玄関部分にリレー式に運び込む。巨大な物資の搬送に40分。その後、事務室で避難所のリーダーの方と暖をとりながら話す。お一人は神戸の空襲の体験、もうお一人は長崎で原爆にあったとか。「こんな災害に人生、2度とあうとは」と話される。建築士1級をお持ちの方からは生徒普通教室棟への補強の可能性とか業者確保のアドバイスを頂く。4時30分、今度は缶のお茶。量は3000本なので、待機職員だけで運搬。朝、5時半、被災者のボランティアを事務員さんが起こしにいく。トイレ脇のドラム缶にプールの水を運んで置かないと朝のトイレ使用ができなくなるし一度詰まらせて凍結するとあふれてくる。起きる方も起こす方もつらい。 朝、7時半ごろ3時間ほど前まで話していたリーダーのお一人がやってきて「テレビを見ていたら残っていた私の事務所もさっき焼けました。」と言われる。しかし、その直後気持ちを切り替えて朝食配付の指示をテキパキされている。凄いと思う。

5. 遅くなってわかる情報は深刻
朝、10時半、兵庫区役所から簡易トイレがやっと届く。それでも2基。連絡のなかった職員もぞくぞく様々な交通手段をとって出勤をしてくる。自宅全壊の方が数名ほど。詳細不明。御影地区はさらに悲惨で、避難所も2000人を超える方がいて電気もガスもつかない状態だとか。道路に遺体は放置され骨折の人は軽傷なのでレスキュー隊は埋まっている人の方で手一杯。「警察に放置されたままの遺体の事をいうと搬送を依頼され運んできた」という職員もいる。市内での車の移動はかなり余裕が出てきて物資をとりにいける。ただ、市外との出入りは遮断されたまま。
 

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